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今週の一冊 第58


今週の純愛

 佐田家に亡子爵の友人の孤児でゆきという娘が養われていた。子爵の生きているあいだは 娘た ちと同じ扱いを受けていたが、その歿後(中略)いつかしら小間使のような位置におちてしまった。然しそんなことを悲しんだり恨んだりする風はなかった。明 るいすなおな性質で、眼もとに毎(いつ)も柔らかい微笑を湛えている。(中略)英一氏(佐田子爵の婿養子、現子爵)は居間へ籠って強い酒を呷った。悔恨と 自己否定、泥酔した彼は酒壜や杯を打破り、床の上に倒れて呻吟した。その物音を聞きつけてゆきが来た。彼女毀れ物を片付け、彼を援け起こし、硝子の破片で 切った指の傷の手当てをしてくれた。そしてそれをしながら「英一さまがこんなにおなりになるなんて、――」こう呟いてはおろおろと泣いた、「あんまりだ わ、あんまりだわ、――」彼はゆきの呟きを聞きその涙を見た。そして溺れる者が救いを求めるように彼女の方へ手を差伸ばした。
「自分の生涯を通じてもっとも純粋で素朴な瞬間であった」子爵の告白はこう書いている、「――そして二人の間に愛が生まれた」

山本周五郎「我が歌終る」(『寝ぼけ署長』新潮文 庫)

 山本周五郎というと『樅の木は残った』など時代小説の印象が強いのですが、その山本が書いた数少ない探偵小説の連作短編が本書です。舞台は戦前のある地 方都市、そこに赴任してきたいつも寝てばかりいる「寝ぼけ署長」が、様々な事件を人情味溢れる方法で解決してゆく物語です。
 引用部は、その中の一編、派手な遊蕩で知られた佐田子爵の死を巡るお話。享楽の人生を送った佐田子爵の秘められた内面を形作ったエピソードの陰に愛を捧 げた小間使の姿あり、というわけですが、立場の違いを超えた愛の尊さと厳しさが短い中に凝縮されております。それを陳腐に堕すことなくさらりと描けるのは 山本周五郎ならではでしょう。それにしても、小間使に同情して泣いてもらえたら――いいですね。
 この短編集では、「一粒の真珠」という一編に登場する使用人も、しみじみとした印象を残してくれます。

(2003.3.22.)

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