今週の一冊 第59


今週の疑心暗鬼

「・・・君はあのひとには充分に満足しているんだね?」
「ええ、かなり――あなたもそうじゃなくて? 料理は上手ですし、やさしくて母親のようなおばさんですわ。(中略)神さまのおかげですわ、あの情けないジェーンがまったく予告もなしに出ていった直後 に、あんなふうにサットンさんが現れるなんて。(中略)もちろん、推薦状もなくて雇うのは危険だったかもしれませんけど、未亡人の母親を養ってるのだとし たら、推薦状はもらえないでしょうからね」
「もら――もらえないとも」ママリー氏は言った。あのときは、この点で不安を感じていた。しかし誰かが必要だということははっきりしていたので、あまりあ れこれと口をはさみたくはなかったのだ。

ドロシー・L・セイヤーズ(新庄哲夫訳)「疑惑」
(エラリー・クイーン編『世界傑作推理12選&ONE』光文社)

 メイドさんのような家事使用人が衰退していった理由は様々に考えられますが、一つには「家庭」という「社会の荒波から守られた安息の地たるべき場所」 に、「家族」以外の他人を入れるということの煩わしさ、ストレスということもあるのではないでしょうか。もちろん「家庭」に関するそういうあるべき姿が広 まったのは19世紀のことに過ぎませんし(しかもその通念と実態の乖離が、「家庭」を巡る様々な問題を今日引き起こしているわけです。いくらお題目みたい に「家族はかくあるべき」と唱えたって解決するわけはありません)、family という語にはそもそも使用人も含まれていたのですが。
 引用したのは、クイーンが編んだ推理小説アンソロジーの中の一編で、「家庭」に未知の他人を入れるために生じた疑心暗鬼の様相が描かれた一編です。病弱 な妻を愛するママリー氏、その家に急遽雇われた料理人のサットン夫人(「黒いドレス」に帽子をかぶり、眼鏡をかけたおばさんのようです)。あたかもその時 世間を騒がせていたのが、雇い主に砒素を盛った家政婦の事件でした。彼女は自分に遺産を残していた父親や雇い主を毒殺して遺産を得ていたのですが、次の雇 い主にも同じことをして発覚、逃亡していたのです。サットン夫人を雇ってから、どうもママリー氏は胃の具合が悪い。もしかしてサットン夫人の正体は――マ マリー氏の心にふと浮かんだ疑惑。そしてそれを裏付けるとも取れそうな物証が・・・あっと驚く結末は読んでのお楽しみ。見事な推理小説です。
 他にも、メイドさんを雇う上で必須アイテムだった前雇用者の推薦状の位置付けも伺えたりする、短いながらも味わい深い作品です。作者が末期ヴィクトリア 時代に生を受けた英国人であるだけのことはあります。

(2003.3.29.)

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