今週の一冊 第64


今週の色恋

 勇敢なるヘンリー・ステッドフォード・ルーク船長のこの上ない親切と慇懃さには、ただ 賛辞 を贈るほかない。(中略)彼は航海術に精通し、経験も豊富で、どんな困難にもたじろがず、しかも実に沈着にふるまう。一言で言えば、まさに「船長」なので ある。鼻が半分欠けているが、それにはいわれがある。数年前船のメイドに惚れた一人のコックが海のただなかで即刻結婚を許可してほしいといってきた。船長 が、港に着く前の結婚は認められないと拒否すると、猛り狂ったコックは彼にとびかかり鼻に噛みついた。それで鼻が半分ちぎれたというわけだ。船長は恋狂い のコックを鉄鎖で縛りあげ、セントヘレナ島へ寄港したさいに裁判所に引き渡した。裁判所はコックに七年の流刑を宣言した。

ハインリッヒ・シュリーマン(石井和子訳)『シュ リーマン旅行記 清国・日本』講談社学術文庫

 トロイの遺跡を発掘したことで有名なシュリーマンが、はじめて世に送り出した書物です。商人として財を築いたシュリーマンは、念願の古代文明発掘にとり かかる前に世界旅行をし、当時まだ江戸幕府が存在していた1865年の日本と、清国とを訪れました。その体験を綴ったのが本書で、この中でシュリーマンは 清のことを不潔で腐敗しているとこき下ろす一方、日本に関してはやけに好意的な記述を多く残しています(それだけに訳者あとがきなんかにはやや暴走気味の 感想が綴られていたりもしますが)。なかなか貴重な幕末日本の観察です。
 ですが、引用部はそれとは全く別でして、シュリーマンが日本を離れアメリカへ渡る時の船の船長についての一節です。メイドさんに惚れた結果が流刑七年、 というお話ですが、船にメイドさんが乗っていたというのが面白いところです。勿論クイーンエリザベス号みたいな大型豪華客船なら不思議ではないのですが、 ルーク船長の指揮する船は小さな帆船に過ぎません。こういう外界と隔絶された空間に女性が単独で乗り込むのはなかなか危険が伴う、という例とも考えられま す(船長の奥さんが乗り込む、という例は多く、有名なマリー・セレスト号もその一例です)。ちなみにシュリーマンの乗ったこの航海時にも「四十代のメイ ド」が乗っていたそうですが、彼女は移民が目的だったとのことです。

(2003.5.4.)

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