今週の一冊 第77


今週のメタフィクション(連載再開&帝メ開催記念特別編)

 女は入ってゆく。黒の仕着せをシャキッと着込み、純白のエプロンの紐キリリと締めて、 レー スのキャップを清楚にかぶり、軍旗のように勇ましくモップを壁に立てかけて、つややかなタイルの床をつかつか進み、退く朝を引き戻すかの意気込みでガラス の扉を力いっぱい押し開く。そんなメイドの仕事ぶりを、バスルームの影から見ながら、男はその尽きることなき情熱と、真一文字のひた向きさ、そして単純な 自己信頼のもつ力に感じ入っているのだった。このうえ何を望みえよう。今度は箒を忘れてきたが、それが一体何だというのだ。靴はバックルが外れており、 キャップもぶざまに曲がっているが、それも些細なことではないか。扉の開けたても、ガラスの割れんのが不思議なくらいの凄まじさだが、それも問うまい。何 にもましてすばらしいのは、部屋に入ってくるときの、あの笑み、あの意気、ほおにさす夜明けの光だ。楽しかろうはずもない日ごとの雑役が、あれにかかると 愛の作品。見よ、毛布を放り上げ、シーツを剥がす時の顔、まるでプレゼントの包みをほどく子どもの顔のようではないか。そしてあの歌声だ。

ロバート・クーヴァー(佐藤良明訳)『女中の臀(メ イドのおいど)』思潮社

 アメリカのポストモダン作家・クーヴァーの作品で、原題は“Spanking the Maid”といいます。本作の内容はといいますと、朝メイドが御主人様の部屋にお勤めに入っていき、必ずドジをしでかして、御主人様にお仕 置としてお尻を 叩かれるということを、延々と繰り返しております。延々と繰り返しているうちに、メイドが御主人様お仕置されているんだか、御主人様がメイドにお仕置させ られているのだか訳が分からなくなってくるところがポイントです。
 さて、本書がメイドスキーにとって如何なる意味を持つかというと、まず一つには、西洋人が現在メイドというものに対して抱いているイメージを探る一助に なるということ、仕着せはやっぱり黒でないといけないようです(笑)あと頭上はキャップですね、キャップ。
 それはともかく、本書が書かれるきっかけとなったのは、作者のクーヴァー氏が大英博物館の図書室で一冊の「女中の心得を書き述べたマニュアル」を発見し たことだそうです。で、そのマニュアルに書かれていた内容は、訳者あとがきから引用すると
 1 知覚を超越したところに神聖な秩序の世界がある。
 2 我々が生きる自然界は、野蛮で暗黒で、重々しく垂れ下がり、グチャグチャ・グニャグニャしていて、時に硫黄の臭気を発している。
 3 そうした罪と混濁に満ちた地上的現実から、一踏み一踏み、光かがやく直線的な整序の世界へ向けて、自己を律し、知を組織し、社会を統御し、“文明”をわた らせることがヒューマンたるもののつとめである。
 4 その「おつとめ」において、より高貴なものは、無知で未開で行ないの粗野なものを導いていく義務を負う。
 5 その「みちびき」は、正しい「ことば」を魂の中へ吹き込むことで実現される。
 ということだそうです。まさに19世紀後半の西欧における世界観を凝縮したが如き理念で、「無知で未開」の対象には、ブルジョアジーに対するプロレタリ アだとか、先進国に対する後進国(植民地)が当てはまるわけですが、メイドさんはその階級と、女性という性の両面から劣位のレッテルを貼られていた存在 だったのであります。余談ですが、ここでメイドさんを導くのにはお尻叩きをするわけですけれど、植民地に対する場合、そして時によってはプロレタリアに対 する場合でも、その手段として取られたのは近代技術の成果である機関銃をぶっぱなすことでありました。そのくせ欧米列強の軍隊は自国の兵士が機関銃で 撃たれることに思いが至っていなかったのですが、この辺の事情に関してはジョン・エリス(越智道雄訳)『機 関銃の社会史』平凡社  を読むと非常に面白いのでお勧めです。両者を連関させて考えると、機関銃を構えたメイドさんフィギュアを見た時の感慨もひとしお増すことは請け合いです。
 閑話休題、クーヴァーのこの小説の中では導かれるべきメイドさんは、自らのつとめを疑わず、御主人様が導いてくれるであろう「理想」めざして突き進む (でも必ずコケる)のですが、導くべき御主人様ときた、導く方法は「手引き書」に頼りきり、でもそれと実際との違いに戸惑い、その思いはぐるぐる迷走し ていきます。あたかも第一次世界大戦後、進歩を信じてきた19世紀の理念が崩壊することを示唆しているとも比定できそうです。第一次大戦で英国軍は、勇気 があれば敵に勝てると信じてドイツ軍の陣地に突撃し、万単位で撃ち殺されていたのでありました。
 また余談になったので話を戻して、というわけで深読すればするほど味わいの出てくる一冊なのでして、いやもはや深読を越えて妄想驀進中という感じです が、まあ妄想のネタに出来るということこそ面白いということなのです、多分。

(2003.9.10.)

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