今週の一冊 第88


今週のプロフェッショナル

看護婦をターゲットとするプロパガンダは、看護婦を依存的で、二流の地位に引きとめてお こう とする。看護婦たちはこうしたプロパガンダを受け入れたり、このプロパガンダによって混乱することはあっても、拒否することはめったにない。自分たちに起 こりつつあること、つまり自分たちは操作されているということに、しばしば看護婦たちは気づいていない。このプロセスは隠蔽されているのだ。
 たとえば専門職化をめざす看護婦たちの奮闘は、女中のイメージを温存しようとする人々に逆用されてきた。たとえば彼女たちは、キャップとユニフォームは 「専門職」の印だと教えられた。しかしユニフォームを着るのはサービス労働者であって、専門職ではないと、看護婦が指摘することはめったにない。

A・H・ジョーンズ編(中島憲子監訳)『看護婦はど う見られてきたか 歴史、芸術、文学におけるイメージ』時空出版

 先週は学校制服話だったり、このコーナーはそういえばメイドネタ限定でもなかったんだということで、今回はナースネタを一つ取り上げてみることにしよう と思います。
 という次第で取り上げた今回の本は、表題の通り看護婦(この本が出た時にはまだ「看護師」という表現は創造されていませんでした)についてのイメージが どのようなもので、それがいかにして形成されたか、そのイメージの持つ問題点というものを様々な角度から取り上げた論文集です。引用したのはジャネット・ マフという人が書いた第9章「イメージと理想」からです。看護婦は看護に携わる専門家とされる反面、医師に従属する女中であるとか、嫁入り修行として「女 性に固有な」看護という仕事を行う(だから女性は誰でも看護婦足りうる)とか、ジェンダーの差別に抑圧されている、しかも看護婦自身がそれに対して立ち上 がるどころか、その抑圧を内面化して受け入れてしまう場合が多い、ということが指摘されています。看護婦の制服もその表れともいえるのです。ちなみに本書 の別の箇所では、19世紀末の看護婦の写真(主にアメリカの)がたくさん載っていますが、彼女たちのいでたちはヴィクトリア朝時代のメイドさんによく似て います。
 ナイティンゲールが目指した看護婦像とは、専門家としての看護婦でした。しかしその後のこのようなプロパガンダ(これには様々な文学作品や映画などが含 まれるわけで、本書では『カッコーの巣の上で』などが取り上げられていますが、アニメやゲーム、さらにはアダルトビデオや官能小説について考えてみても面 白いでしょう)の結果、看護婦は医師に従属する「女性的な」性格、自立よりも献身を求められるようになり、皮肉にもそれが「ナイティンゲール主義」と呼ば れるようになります。しかし看護婦はひたすらな献身に打ち込むのではなく、自らの職業に適切な誇りを抱くことが必要であると指摘されています。この専門家 であるということ、プロフェッショナリズムということは、メイドさん(専門家として認識されていない)について考える上でも重要な論点足りうると、筆者は 考えております。

(2004.1.13.)

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