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今週の一冊 第99


今週の妄想

 一八七〇年代半ばには、女性は先天的に模倣者であって創造者でないという考えは、西洋文化のなかで最も普及した常套句の一つとなっていた。このような模倣への傾向のために、劇場の舞台こそ、女性が文明社会の文化的生活に最もよく寄与しうる場として見なされるようになった。実際、演技とは、模倣の一形態でないとすればいったい何であろうか。(中略)
 「反射するもの」としての女性の性質は、もちろん、演技癖という形以外でも描くことができた。フロベールは「純な心」(一八七六)という物語のなかで、自己滅却的な下女フェリシテ――あらゆる中産階級の家庭が雇いたいと夢みるような、理想的な種類の種類の労働者階級の役畜――と、彼女が個人的崇敬の対象とした、それ自体自然界における模倣行動の古典的象徴である鸚鵡とのあいだに、手の込んだ平行関係を創出した。女と鸚鵡。文明社会においては、どちらも反射された実存を生きるのがせいぜいである。フェリシテは召使いとして正当にも、そのときどきの主人たちを模倣することに人生を費やす。鸚鵡を崇拝するとき、彼女は本能的に、模倣の神を、彼女の無意味な実存の不条理な精髄を、崇拝することに決めたのだ。

ブラム・ダイクストラ(富士川義之・藤巻明・松村伸一・北沢格・鵜飼信光共訳)
『倒錯の偶像 世紀末幻想としての女性悪』パピルス

 19世紀後半から20世紀初頭にかけて、西洋の主に上流階級の人々が女性に関して如何なるイメージを、もっと言えば危険な幻想を抱いていたのか、その時代の絵画による女性の表現を手がかりに読み解いてゆく書物です。手がかりとなる絵画については318枚もの図版を収め、600ページを超える浩瀚な著作ですが、大変に面白く飽きることがありません。
 19世紀に於ける女性の地位が低かった、それは現在のみならずそれより過去の時代と比べてもそうであったといわれています。19世紀の産業社会の発展により、中産階級では女性が生産活動の場から締め出されて、社会の荒波から守られた家庭の中に安寧をもたらす存在として――「家庭の尼僧」として――祭り上げられます。しかし実際にそんな地位をほいほい女性が受け入れるかといえばそういうわけではなく、それでは男たちがそのような概念を修正するかといえばそんなこともなく、女性を従属的地位におとしめようとする幻想の方をより過激化するのでした。活動的な女性像は忌避され、病弱な女性の画像が美術界に氾濫し、献身の果てに死ぬ女性像を礼賛します。かようなプロパガンダに女性が従うかといえばそんなわけもなく、むしろ19世紀後半にはフェミニズム運動が勃興し女性の地位向上を求めて戦いを始めます。男どもはこれに恐慌をきたし、あるべき理想に従わぬ女性を倒錯の偶像として描き、女性像は極端から極端へ揺れ動きます。
 19世紀後半には科学が進歩し、進化論が唱えられるようになります。しかし、この「進歩」も、女性差別の理論を補強し激化させる方向に作用するのでした(進化論は教会などによって非難されはしたが、実は当時の時流に適合的であったから受容されたのであり、自らの革新性を誇張するために進化論を唱えた側が進化論への非難を大げさに描いたのだ、と述べられています)。女性は(有色人種などと同様)劣等な存在として位置づけられ、劣等なる女性の魔手に絡め取られれば男性もまた退化するのだとされ、科学者が進化論を楯にそれにお墨付きを与えたのでした。女性嫌悪の風潮は世間を風靡し、両性の関係はあたかも戦争のように描かれ、「女性皆殺し(ガイニサイド)」の幻想を抱かせるまでになります。
 ダイクストラは、結局実現不可能なガイニサイドに代わって、20世紀には民族皆殺し(ジェノサイド)が実行されたのだと本書を結んでいますが、これは本書が触発するであろう様々な考えの可能性からすれば、いささか手短にまとめてしまったきらいがあります。本書は読む人によって多様な、またひとりの読者が思う内容だけでも多様な感想を抱くことができるでしょう。とりわけ、女性キャラクターに重きを置いた様々な表象に取り囲まれている、秋葉原方面の趣味の方々は、是非ご一読されることをお勧めします。あと百年経って新たな『倒錯の偶像』が編まれ、女性を描いた絵画に代わって萌えキャラの画像が大量に張り込まれ、フランシス・クックやオットー・ヴァイニンガーに代わって斉藤環や東浩紀が取りあげられるような本ができるかも知れない、と考えると、たまらなくわくわくします。
 ともあれ、このような女性へのまなざしは、百年の時を経た現在でも、形を変えつつ受け継がれている面はきっとあるでしょう。筆者としては、19世紀後半の高度な産業社会の形成が、ホワイトカラーの疎外感を深めたということが、重要なキーワードになるのではないかと思います(連載第80回参照)。世紀末において疎外感のはけ口を男たちが女性に向けたことが本書に指摘されており、同様な状況は今日なお存在しているでしょう(ヴァーチャルな世界に逃避した人間が現実感を喪失して犯罪を起こすのだ、などという言説を再検討する上でも有用でしょう)。常識というものの怪しさを考え直すというだけでも、充分今日的な意味があります。
 引用部は女性には創造性がなく男の真似をすることしかできない、という当時の風潮について述べたものですが、女中の理想像が主人の模倣にあるということは、彼女には自ら独自の理想像を追求する能力はなく、ひたすらなる従属をすることが、「理想的」と当時の読者(階層としては雇い主)に受け取られていたのですね。そうしてみると、ギャルゲーやアニメに出てくるようなメイドさん萌えの人こそ、実は、精神的にはヴィクトリア朝のご主人様どもの正統的後継者であると考えることも可能です(これは本書における、ロマン派絵画と印象派との関係とパラレルになります。印象派は「描き方」こそ新しかったけれど、描く対象への眼差しはそれ以前の美術と何も変わってはいなかったのです)。或いは連載第21回の鹿島氏の言説などを再検討してみるのも興味深いでしょう。
 とまあ、きわめて面白い本書なのですが(ツッコミを入れれば入れ所もあるのですが)、1994年邦訳版登場であるにもかかわらず10年経たずに既に新品での入手は不可能なようです。しかし関心のある人には、古本屋や図書館を草の根分けても探し出す価値はあります。

※追記:ブログ「筆不精者の雑彙」に、本書に関連することを書きました。
 こちらへ→「わたしのリコネクションズ〜メイド・非モテ・倒錯の偶像・高山宏など」

(2004.6.12.)

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